岩波講座 政治哲学 5 理性の両義性
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目次
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序論
齋藤純一
Ⅰ 全体主義を超えて
唯物論のアクチュアリティ
自生的秩序を守るための統治にひそむ問題性
政治の終わりと始まり
Ⅱ 自由と他者
実存と二〇世紀の政治
デモクラシー・他者・共同性
Ⅲ 正義と共通善
「正義とはいかなるものか」をめぐって
正統化の危機/正統化の根拠
コミュニタリアニズムと多元主義の「あいだ」
理性に両義性があるとは?ということで序論を読む(写経)
本巻に編まれているのは、おもに20世紀後半の政治哲学についての諸論考である。
二度の総力戦と全体主義を経験したこの時代は、大きく見れば、世界を二分する冷戦構造とそのイデオロギー、原子力を含む技術革新とその利用が招くリスク、経済の急速な成長とそのグローバルな再編、大量生産 — 消費の生活様式とそれが惹き起こす自然破壊、再分配や種々の補償を行う社会国家(福祉国家)の形成とその後退、そして豊かさのなかでの孤独などによって特徴づけられるかもしれない。
何かを中心化し、それを基点に位階的な秩序を構成しようとする理性は、その何かが「男性」であれ「白人」であれ「西洋」であれ、あるいは「人間」であれ、この時期における理性批判の展開を通じて疑問視され、それにもとづく規範の正当性も問い直されるようになった
こうした理性批判に共通する要素を挙げるとすればそれは「同一的なもの」( the identical ) に対する「多元的なもの」( the plural )の擁護であるように思われる。
「多元的なもの」を「同一的なもの」に回収ないし還元しようとする理性については、徹底した批判が加えられた
「理にかなった多元性の事実」(ジョン・ロールズ)という表現にも見られるように、(それぞれの)世界観や「善の構想」が互いに共約不可能であることは「事実」=「与件」とみなされるようになった。
多元的であらざるを得ない社会にあってその多元性を抑圧しない秩序を探るとき、理性をめぐる問いの重心は、「合理的なもの」( the rational ) から「理にかなったもの」( the reasonable ) へと移る。つまり推論( resoning ) は、それぞれにとって合理的なものをいかに集計ないし調整するかという問いから、利害関心や価値志向を異にする者がともに受容しうる理由とはなにかという問いを重視する方向へ移ることになる。
差異を尊重しながらもそれが隔離や分断を招くのではない社会統合の構想は、疑いえない「真理」や「目的」にもとづいた秩序を設計し、それを制作するというかたちをとることはできない。
価値志向を異にする人々がその相違にもかかわらずともに受容しうる理由 —— 「公共的理由」( public reason ) —— によって、秩序を構成する主要な制度や行為規範を正当化するほかはない。
そうした理由を探求する人々の推論は、対話的なものであり、したがって可謬的なものである。人々の間で行われるコミュニケーションは、かりにそれが「合意」を導くとしても、誤りを免れない。人々の推論が可謬的であるとすれば、正当とみなされてきた制度や行動規範がどのような不正を具体的に惹き起こしてきたのかをたえず省みる、再帰的なルートがそうした推論に組み込まれていなければならないだろう。